PR 吉田康平
役目終えた「最強」の1番。
伝説の左プロップが、その役割を静かに終えた。
吉田康平。組んだことのある選手たちが「日本でいちばん強い1番は康平さん」と口を揃える存在だった。2012年度から10年間、ヴェルブリッツのフロントローとして身体を張り続けた。選手生活終盤は手術した膝と折り合いをつけながらの現役生活だったが、評価は押しと同様、最後まで揺るがなかった。
「いまは少し寂しさがあるというか、ずっとラグビーをやっていたので、それがなくなった感覚と、仕事に戻った戸惑いがあります。これからいろいろ吸収しないといけないな、という感じです」
京都成章出身。平安高校でラグビー部だった父を追って勧修中で楕円球を手にした。中学時代はHO、京都成章に入学したときはNO8。徐々にポジションを前に移し、高2からPRに。帝京大では大学選手権優勝に輝いた。
今や京都成章-帝京大は1列の出世街道。この夏の日本代表スコッドにも後輩の淺岡俊亮はじめ、HO坂手淳史、PR森川由起乙と3名が選ばれている。吉田はスクラムが強く、機動力も兼ね備えたフロントの先達だった。
トヨタ自動車入社は2012年度。初年度、リーグ13試合中12試合に先発。トップリーグ新人賞を受賞する。以降、全ての試合に先発するのが当たり前となり、まさにスクラムの屋台骨を担っていた。
それが途切れたのは2019年シーズンのこと。全15試合通しての出場はリザーブで5試合、プレータイムは81分だった。練習中に半月板を損傷し、手術したのだ。
「選手生活で初めてのケガでした。
それまでリハビリの段階を踏んできてなかったので、“これくらいやっても大丈夫かな”と思ったら腫れてきたり、慣れるまで時間がかかってしまった」
負傷するまでテーピングは巻かない派だったが、その後は欠かせないように。負担を考慮して、リザーブとしての投入も増えた。そのことが、選手としての視野を広げさせた。
「スタメンで出ていたときは、インパクトタイプではないと思ってました。いざリザーブになったら、出場してすぐトップパフォーマンスを発揮しないといけない。ケガをしてから学びがありました。ずっとスタートで出ていたら、わからなかった」
本職は1番だが、3番もこなせ、ジェイク・ホワイト監督時代にはHOでも出場している。1~3番を高いレベルでこなせるのも強みだった。
入社10年目で迎えたリーグワン初年度。膝の調子は悪くなかった。プレシーズンマッチにも出場、手ごたえはあった。だがコロナによる相次ぐ試合中止、さらにHOの選手層が手薄になったことで、練習では本来のプロップではなく、HOに入ることが多くなった。リザーブに名を連ねたのは第4節のBL東京戦。だが出番はなかった。
「今まででいちばん練習に参加できた。手ごたえはあったので、やりきった感はあります」
メンバーリストに名を連ねることこそなかったものの、1列ならどこでもこなせる存在として、常にスタンバイしていた。
ラストゲームとなったのは4月23日の第14節・静岡ブルーレヴズ戦前日の練習試合だ。翌日のリーグワンでの対戦は3-15とリードされ、後半20分過ぎからの猛攻で18-15と逆転勝ち。姫野和樹共同主将は会見で「前日の練習試合で、みんながトヨタのラグビーを見せてくれたおかげ」と、前日戦った仲間を称えた。
「レヴズ戦はここ数年の練習試合の中で一番よかった。自分を含めた引退選手がラストの試合で気合が入って、いい形で終われた。翌日の試合にでるメンバーも見に来てくれて、“思いが伝わった”と言ってくれた」
もっと本来のポジションで練習できていたら、という思いは残るが、最後にチームに大きな貢献ができた。
現在は三好工場と明知工場の人事を担当する。将来的には再びグラウンドに戻ってきたい。
「これまでも後輩たちからいろいろ聞かれることが多かったのでアドバイスをしていました。個々にみんないいものを持っている。でもスクラムはチームによって色が違う。相手に応じた対応力はこれからの部分」
入社間もない頃、元日本代表・豊山昌彦スクラムコーチの教えを受けた。
「豊山さんからは、細部にわたって教えていただいた。あとは人柄。“この人の言うことを聞いていれば間違いない、という信頼感がありました。自分もこれからコーチングも学んでいきたいし、プレーヤーとは違った形でアプローチしたい。1列全部経験できたのは強みかなと。最近、一時期のトヨタのフロントローのイメージが少しずつ戻ってきた。若い選手たちの力になれたら」
広く深いスクラムの森。いずれ、先輩から受け継ぎ、自分が新たに見つけたものをグラウンドで伝えていく。
よしだ・こうへい/1989年12月29日生まれ・33歳/184㌢106㌔/京都成章→帝京大/在籍10シーズン
文/森本優子
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