SH滑川剛人
5年後へ、立ち止まってる暇はない。
この5月で足掛け20年以上にわたった現役生活を終えた後も、滑川剛人の日常は、さほど変わらない。今もトヨタスポーツセンターを拠点に、日々トレーニングに励む。変わったのは選手兼任ではなく、レフリーに特化してコンディションを整えるようになったことだ。
滑川は2019年12月に日本協会の審判部門TIDプログラムに参加。当時はトヨタの社員であり、トップリーガー(当時)、かつレフリーという稀有な肩書を持っていた。
2020年度シーズンは、レフリーをしながら、公式戦では21番をつけてリザーブ入り。5試合に途中出場し、試合を締めくくる「クローザー」として活躍した。
リーグワン初年度の昨季はメンバー入りはゼロ。月曜から水曜まではSHとしてチームの練習に参加、木曜のアタック&ディフェンスは笛を吹き、週末はリーグワンのレフリーとして、どこかの会場にいた。
「去年のシーズンは僕の中で一線を引いていました。万が一、SHが全員ケガした場合に備えて試合に出る準備はしていましたが、僕が思っていた以上に健太(福田)が成長した。もう心配ないです」
トヨタでは10シーズンの選手生活だった。
「やりきった。いろんなことがありました。試合に出られた年もあったし、出られなくなって、チームにプラスの影響を与えられなかったときもあった。21番にこだわり始めた時期もある。ラグビー選手というより、人として成長させてもらいました」
ラグビー歴は長い。小4で聖学院小で始め世田谷ラグビースクールへ。高校は、全国大会に出始めた桐蔭学園に進学。そして帝京大では2年時から大学選手権3連覇。行く先々でチームが上昇曲線を描いた選手でもあった。
トヨタでは入社2年目からレギュラーを不動にしたが、先発からぽっかり消えていた時期がある。ジェイク・ホワイト監督が指揮を執った2017年からの2シーズンだ。リザーブには入ったが出場回数も少なく、プレータイムは激減した。
「どのチームも、誰が出るかは監督次第。ジェイクのラグビーを僕はできなかったし、まだ若かったこともあって、彼のやり方に合わせようとも思わなかった。いま思えば、もっと違うやりかたがあった」
チームからレフリーの打診があったのは、そんな時期だった。
「それまでずっと試合に出ていた選手が出なくなったから、力を持て余していると思ったのかもしれません。
僕の中でも、いいタイミングでした。サイモン(クロンHC/ジェイク氏の後任)のときに話が来たら、絶対に断っていた」
選手として先発できなかった時間が、結果的に滑川の人生を思わぬ方向へ導いた。
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レフリーにほぼ特化した昨シーズン。部員としてトヨタの試合を観戦したのは1~2試合。大阪で行われたRH大阪とBR東京の開幕戦から、プレーオフトーナメント準決勝・東京SG対BL東京戦まで、笛を片手に全国を駆け巡った。それはレフリーとしての成長と、試合を捌く重さを実感したシーズンでもあった。
「僕のレフリーとしての開幕戦だったRH大阪対BR東京は“選手あがりがレフリーをやっている”試合でした。それが準決勝では“レフリングを勉強した人間がレフリーをしている”試合だった」と分析する。
「開幕戦で僕は“このボールが大事“と、ボールだけを追っていた。見えないことは、見に行く必要がないと」
それは選手としての感覚でもあった。だが、試合後にレフリー部門からアドバイスを受けた。
「森の中の木を見るのか、木の中の森を見るのか」
そのひとことで、レフリーとして目を配らなくてはいけない事象に気が付いた。シーズンの最後に吹いた準決勝は、その学びを活かせた試合だった。同時にチームにとって、替えの効かない試合を任される重さも感じた。
「この1年でいろんなことを経験しました。迷惑をかけたチームもある。それは、僕がうまくなることで許してもらうしかない。周りには本当に感謝しています」
それでも、自分の強みは失いたくない。
「選手兼レフリーをやった人間はあまりいないと思うので、選手としての感覚も大事に持ち続けたいと思っています」
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小4でラグビーを始めた滑川。「家族でスポーツをやったのは僕だけ」も、小さい頃から運動神経抜群、球技では誰にも負けたことはなかった。テニスでも小4時に都大会入賞。引き留められたが、1週間で辞めた。なぜか続いたのがラグビーだった。ぶつかりあいやトライすることが好きだったわけではない。ただ、ラグビーについて考えることは楽しかった。
「練習や試合前に、いろんなことを考えるのが大好きでした。小さい頃から風呂場で、“相手がこう来たら、周りをこう動かして”と試合のイメージトレーニングをして、それはずっと続いています。試合の前夜に考えたことは翌朝ノートに書きだす。出来なかったら、また考える。みんなやってることなので特別ではないです」
子供の頃から無意識に実行してきたイメージトレーニングが、滑川のプレーのベースにある。それはおそらく、レフリーになっても強みになるはずだ。
すでに日常は忙しい。6月は日本代表の宮崎合宿に呼ばれ、練習を吹いた。テストマッチ期間は、各国から来日したトップレフリーのアテンド。男子の活動が終わると、今度は女子日本代表の合宿へ。目指すのは2027年、オーストラリア開催のワールドカップで、レフリーとして笛を吹くことだ。
「あと5年でなく、もう5年。休んでる暇は全くない」
残された歳月を、緊張感を持って受け止める。喫緊の課題は英語力だ。グラウンドレベルでは問題はなく、世界各国のレフリーをアテンドしたときも日常会話に不自由はなかったが、「最初から英語であらたまって話をする経験がまだ少ない」。海外に武者修行に出たい気持ちはあるが、踏ん切りがついていない。
「今から海外に行ってしまえば、絶対に間に合う。でも僕にとって一番大切なのは家族。これまでも家族を最優先に考えてきたから、いま非常に迷ってます」
夫人は、トヨタのソフトボール部に所属していた美加さん。美加さん自身、トップレベルで活躍したアスリートであり、選手時代から滑川を理解し、後押ししている。
「僕は人と出会う運を持っている。小学校時代から、いろんな人に出会って、ここにいる。今思えば、そういう人たちがいたから、試合に出られなくてもラグビーを辞めるという選択肢はなかった」
それでたどり着いたのがレフリーなら、これからもその出会いは続く。5年後、オーストラリアのスタジアムのピッチで、試合前に両チームの間で立っている姿を、家族が見守る――そんな光景が浮かぶ。
なめかわ・たけひと/1990年1月1日生まれ・32歳/164㌢73㌔/桐蔭学園→帝京大/在籍10シーズン
文/森本優子
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