トヨタ自動車OB列伝
第2回
難波英樹[CTB]
在籍/1999年度~2010年度
「子供たちに、もっと気軽にラグビーを楽しんでもらえたら」
これまで多くのタックル&パスの名手を輩出してきたトヨタ自動車。2000年代にチームを支えたCTBが難波英樹さん(45歳)も、その一人だ。
現役当時のサイズは178㌢86㌔。それでもトップリーグの名だたる外国人CTBの中に入れば小柄の部類だった。激しいタックルに精緻なパス、そして試合が終わるといつもジャージーが泥まみれになるひたむきさが、広くファンに支持された。日本代表としてもキャップ24を持ち、2003年にオーストラリアで開催された第5回ワールドカップにも出場している。
トヨタ自動車では1999年度から12シーズン現役を続けた。引退後はコーチを務め、昨年5月からは日本ラグビー協会に出向している。
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ラグビー界で「難波英樹」の名前が広く知られるようになったのは、神奈川県・相模台工業高校時代。現在は統合により校名は消えたが、1980~90年代前半、「サガミダイ」は県内で無敵を誇った。上下漆黒のジャージーの強力FWは、花園でもおなじみの存在だった。相模台工は1993年度の第73回大会、1994年度第74回大会と花園連覇しているが、難波さんはCTBとして2連覇時のレギュラー、3年時はキャプテンも務めていた。
難波さんは神奈川県出身。
中学までは野球部で甲子園を目指していたが、自分にそこまでの才能がないことも薄々感じていた。
そんな折、中学のサッカー部の顧問の先生に「相模台工でラグビーをやってみないか」と勧められた。
「当時は気性が荒かった。僕の性格を見て、なんとなくラグビーに向いてると思われたのでしょうね。負けず嫌いだったので、甲子園の代わりに花園を目指そうと。安易な気持ちで始めたら、生涯スポーツになりました(笑)」
同期は40人、そのうち中学時代のラグビー経験者は一人だった。
「僕らは先輩に“史上最弱”と言われた世代でした。1学年上の先輩たちが強くて、はっぱをかけられた記憶があります」
当時、高校大会での連覇は1973年~1974年度の目黒(現目黒学院)高校以来のこと。見事に史上最弱のレッテルをはねのけた。
当時はスパルタの時代。相模台工も猛練習で知られ、菅平の夏合宿では練習試合で負けた後、上田駅までランニングで往復したという逸話がある。
「僕らのときは上田駅ではなく、途中のダムまで(笑)。試合に負けるのではなくて、トライを取られたらダメでした。普段の練習でも、“〇〇駅まで走ってこい”と言われることはありました。賢い仲間は小銭を持っていって、行きだけ走って、帰りは電車で帰ってきたり。古き良き時代です」
合理的とは言えない練習だったが、「人間形成に役立ちました」と振り返る。
卒業後は帝京大に進学。先輩が何人か進学しており、家から通えることも理由だった。ちょうど対抗戦グループで頭角を現してきた時期だ。
「自由なイメージがありましたが、実際に入ってみたらまだ上下関係はありました。他の仲間はきついと言ってたけど、僕は高校時代に経験していたので、それほどでもなかった。いい意味で自由にやらせてもらいました」
岩出雅之監督が就任したのは、大学2年時。それまでは監督が来るのは土日だけ、上級生が練習メニューを考えていた時代だった。
高校日本代表、U23日本代表、学生代表…。
当時から世代別の代表には必ず名前があった。
「いろいろなカテゴリーの代表に呼んでいただいて、こういう世界もあるんだ、と知ったのが、その後に大きかったですね」
大学4年時にキャプテンを務めるも部内で不祥事が起き、対抗戦への出場を辞退。最後のシーズン、ジャージーに袖を通すことはできなかった。
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社会人でもラグビーを続けようとトヨタ自動車を選んだのは、チームカラーに自らのスタイルと似たものを感じたからだ。
「トヨタは小細工なしのラグビー、魂のぶつかり合いのイメージでした。当時、他のチームの選手からも“トヨタと試合すると次の日、身体が痛い”と言われていた。先に誘っていただいたチームもあったんですが、武骨さに惹かれました」
入社当時、トップリーグは創設されておらず、秋は関西社会人リーグ、年末年始の全国社会人大会で覇権を争っていた。
「まだ綿のジャージーで、雨に濡れたら重かった(笑)。トヨタはオンオフがしっかりできる人が多くて、雰囲気はよかった」
入社5年目の2003年、トップリーグが創設される。だがトヨタは前年度の関西社会人リーグ、全国大会の成績が及ばず、初年度に加わることはできなかった。難波さんは当時のキャプテンだった。
「あの頃は日本代表の試合で、身体はボロボロでした。チームの練習中も文句言ったりして、キャプテンらしくなかった。雰囲気も良くなくて、負の連鎖でした。(入れなかった)責任の一端は僕にある」
それでも翌2004年度にトップリーグに昇格。以後7シーズン、いちどだけ8位に落ちたが、常に4強に名を連ねた。だが、頂点には届かなかった。2010年度限りで現役にピリオドを打った。12年間のトヨタでの現役生活、優勝できなかったのが、今も心残りという。
「どの選手も同じかもしれないけど、1回でも優勝していたら気持ちよく引退できた。トヨタ自動車が好きで入ったから、チームで優勝できなかったのが本当に残念でした」
すぐにコーチ就任の打診もあったが、断った。引退後は会社員として、仕事に集中しようと決めていたからだ。5年間、仕事に打ち込み、2016年度にコーチとしてチームに戻る。選手を教える立場となり、ラグビーの世界が再び大きく広がった。
「人を教える難しさが分かりました。
それまでは自分の感覚に頼っていたのですが、僕の前にコーチをされていた奥野(徹朗)さんに“コーチはそれではダメだよ。選手にちゃんと落とし込まないと”と言われた。“わかってますよ”と答えながらも、実際はなかなか難しかった。
コーチ研修に行かせてもらって、ラグビーの原則や戦術戦略を勉強させてもらったら、昔の“右向け右”の指導法ではなかった。そこで改めてラグビーを学んで、トヨタでジョンさん(マグルトン=元ディフェンスコーチ)やジェイクさん(ホワイト=前ヘッドコーチ)ら、外国人コーチの指導を学んで、少しは言葉に落とせるようになったと思います」
現役時代、グラウンドで見せた熱量は教える立場になっても発揮された。キックやパスが現役時代より上手くなったのだ。
「コーチも学びを止めてはいけないと学びました。パスも人に教えるのだから、それ以上にやらないといけない。まだ当時は身体も動いたから、コーチをしていた時のほうが、パスやキックはうまかった気がします」
2019年10月にコーチを退き、再び社業へ。昨年5月からは、日本ラグビー協会に出向、普及育成部門に籍を置き、主に東海地方を担当している。小学生のタグラグビー大会、全国ジュニア大会の手伝いなど、携わる範囲は幅広い。昨年、静岡と大分で開催された日本代表戦も、試合前の企画のサポートで会場にいた。
1月9日に行われた帝京大と明大の大学選手権決勝では、競技場内で流れるFMにゲストで出演、後輩たちの戦いを解説した。
「あの試合は本当に強かった。コーチではなくて、選手自身に試合中の修正能力がある。すごいなと思いました」
花園で連覇した時と比べると、ラグビーが大きく進歩したと感じる。
「当時は信じられないくらいシンプルでした(笑)。ラグビーIQが高くなくてはいけない時代が来た。選手や指導者はいろいろなものを求められて難しいかもしれないけど、“考える”ということは、その後の社会人でも生きる。僕も日本代表で戦術戦略を学んで、トヨタでもラグビーを観たり考えたりするのが好きだった」
普及の現場に携わるようになり、草の根の現状にも直面した。ラグビーの認知度は2019年に日本で開催されたワールドカップで高まった。半面、手が届きにくい、とためらうケースも出てきた。若い競技者人口を増やすことは日本ラグビー界喫緊の課題だ。
子供の減少、働き方改革による指導者問題など、スポーツ界全体が抱える問題もある。ラグビーもトップレベルはプロ化が進んだが、草の根の普及は、各地域協会のボランティアに頼るのが実情だ。
「せっかくリーグワンがスタートしたのに、ラグビーを始める子供たちが増えないと、先が見えてこない。もっとラグビーを気軽に子供たちに楽しんでもらえるようにしたい。
各地域協会、たくさんの方がボランティアで地道な作業をやってくれています。何かその手助けができればなと。日本協会と地域協会をつなぐパイプ役になれたら」
コロナ禍で直接会う機会も限られているが、地域協会の関係者から「あの難波さんですか」と驚かれることも、しばしばだ。
「ありがたいことです」
7月2日には地元・豊田スタジアムで日本代表とフランス代表のテストマッチが予定されている。子供たちにアピールする絶好の機会だ。
「ヴェルブリッツも協力したいと言ってくれていますので、何か企画ができればと考えています」
トップリーグでプレーしたのは7シーズン。トヨタでは不動のCTBだったが、トップリーグのベスト15に名前はなかった。
「僕より上手いCTBがたくさんいましたから」
それでもファンの脳裏に鮮やかな記憶を残した選手だった。苦しい時期に身体を投げ出し、その後の礎を築いた。今度は選手を送り出す側で、支える存在になろうとしている。
経歴
難波英樹/1976年7月8日生まれ。
相模台工→帝京大→トヨタ自動車。/現役時代はCTB。178㌢86㌔。日本代表キャップ24
文/森本優子
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