【PICK UP】トヨタ自動車OB列伝 第1回 ロペティ・オト[WTB]

トヨタ自動車OB列伝
第1回
ロペティ・オト[WTB]
在籍/1996年度~2003年度
 
 
日本のラグビー界で、すっかりなじみの存在になったトンガ出身選手。現在トヨタヴェルブリッツにはタウファ オリヴェ、フェツアニ ラウタイミの二選手が所属しているが、ラグビー部に初めて入社したトンガ出身選手が、ロペティ・オトさん(50歳)だ。

1991年に来日、トンガカレッジから大東文化大に入学し、WTBとして活躍。大学在学中の1992年に日本代表に選ばれると、1995年に開催された第3回ラグビーワールドカップの日本代表にも選出された。1996年度にトヨタに入社、2003年度まで現役を続けた。

オトさんはトンガ王国ヴァヴァウ州ファレヴァイ島出身。父親は数年前に他界し、母親と兄弟はニュージーランドに住んでいる。母方の兄弟の子供たちはトンガ在住で、2月初旬現在、まだ直接の連絡は取れていない。
「ニュージーランド経由で安否確認はできたのですが、被害状況が伝わってこないので心配です。復旧にはおそらく何年もかかるでしょう。長い支援が必要だと思います」
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半世紀近い歴史がある日本とトンガのラグビー交流。オトさんが日本に来たのは1991年、19歳の時だった。トンガカレッジ時代、すでにラグビーでトンガ代表候補、セブンズのトンガ代表に選ばれていたが、日本に行けばラグビーと勉学の両立ができると聞き、面接を受けた。
「母方の兄がハワイに住んでいたので、アルバイトで学費を稼いで、ハワイ大学に留学する話もありました。その受験を待っているタイミングで大東大の留学の話が来た。日本に行けば、奨学金をもらえて勉強とラグビーができるんだと。その喜びは今でも覚えています」

ラグビーだけではなく、勉学もできること。その選択が、その後の運命大きく動かしていく。
「フィジー経由で日本に来たのですが、日本の気候もわからなくて半袖。成田に着いのは3月中旬でしたが、めちゃくちゃ寒かったことを覚えています」

1年間、語学学校に在籍、日本語を学んだ。ラグビー部に入部すると、スピードと持ち前の粘り腰を活かした走りで、すぐにレギュラーに。大東大3年時には第31回大学選手権で優勝するなど、黄金時代を築いた。卒業後も日本に住み続けることを決め、1996年、トヨタ自動車に正社員として入社する。
「契約選手の選択肢もありましたが、ラグビーはいつか引退しなくてはいけない。ずっと仕事をやっていこうと、正社員を選びました。当時は日本語もそんなにうまくなくて、仕事をやっていけるかどうか一番心配でした。迷惑だけはかけたくないと、がむしゃらについていきました。僕はいい先輩に恵まれた。“トヨタで生きていくためには、こういうことが必要だよ”と徹底的に教えてもらった」

1990年代後半、まだトップリーグは生まれておらず、「社会人ラグビー」と呼ばれていた時代。トヨタ自動車は関西社会人リーグに所属し、年末年始に開催される「全国社会人大会」で覇権を争っていた。

ラグビー部も朝から終日仕事をして、夕方5時から練習、その後、職場に戻ることも珍しくなかった。会社では、英語を活かせる部署を希望。現役を退いた後も、順調にキャリアを重ねた。
「職場は海外と関われる仕事を希望しました。最初の配属は海外生技部。海外に新工場を設立するとき、現地で自動車を作るための設備を輸出する部署です。機械は船で運びますから、船内のスペースの予約や、現地についてから工場まで運ぶ業者の手配、機械の据え付けまでのスケジュール調整などが仕事でした。担当は中国でしたが、現役引退後は中国だけでなく、ポーランド、トルコ…様々な国に出張で行きました」

オフィスで昼休みの楽しみは囲碁。現役当時、職場の部長に手ほどきを受け、社内の仲間と碁盤を囲んだ。今は在宅勤務が増えたこともあるが、「社内に碁を打てる人が少なくなった」と嘆く。
「囲碁は、ラグビーと似ていると思います。(相手の)固まっているところにはいかない。早く逃げたいときは飛ばす。結構面白い」
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現在の職場はリスク管理、建屋管理業務。週末は中部大学春日丘高のグラウンドに通う。ラグビー部のコーチを始めて14 年目。春日丘高の宮地真監督はラグビー経験はないが、同じ大東大OB。そこから縁がつながった。
「たまたま鏡さん(保幸/大東大ラグビー部当時監督)が岐阜に来られてOBが集まったとき、宮地監督とお会いしました。“春日丘でラグビーを教えてます、よかったら遊びに来てください”と言われました」
その後、深夜のテレビで春日丘が敗れた愛知県の花園予選決勝を目にして、すぐ受話器を手にした。
「試合は終始春日丘が勝っていたんですが、ロスタイムが数分間あって、最後にトライを取られて逆転負けした。それを見て“自分が手伝ってあげていたら”と思い、すぐ電話して“行きます”と」

当時のチームは愛知県内で強くなり始めたところ。コーチを始めた最初の2年間は花園には行けなかった。そこで、オトさんをよりグラウンドに駆り立てたのは、負けて涙する高校生たちの姿だった。
「選手たちが負けて泣くのを初めて見ました。高校生は純粋だなあと。目標があれば、もっと強くなれる」

その情熱が実り、今では春日丘は、押しも押されもせぬ花園常連校に成長した。
「10回連続で花園に出たら(コーチを)辞めようと思ってたけど、辞められない(笑)」

教え子からは、彦坂圭克・匡克兄弟、姫野和樹選手がトヨタの後輩として入ってきた。
「姫野は入ってきた当時は細かったですけど、馬力やパワーは全然違いました。必ずしもトヨタに入らなくても、日本のラグビーを盛り上げてくれれば。僕もラグビーで生きてきた人間なので、コーチングもひとつの恩返し」

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楕円球との関わりは、コーチングだけではない。最近は録画したリーグワンの試合を観るのも楽しみだ。トヨタヴェルブリッツの試合はもちろん、長男(オト ジョシュア輝恵さん)は昨春、帝京大からリーグワンのクボタスピアーズ船橋・東京ベイに加入した。191㌢113㌔の恵まれた体格でポジションはLO。高校までバスケットボールで活躍、ラグビーは帝京大に入学して始めた。ジョシュアさんの話になると、父親の目じりが下がる。
「小学校はラグビースクールに通っていたんですが、中学になったら部活でバスケット部に入って、そっちに夢中になった。背も伸びて、全国の高校から誘ってもらいましたが、本人が八王子高校を選びました」

強豪校で活躍、大学進学もバスケットでの誘いがあった。進路を決める際、父は息子にたずねた。
「息子に“お前の中で、ラグビーはどのくらいの割合を占めてるの”と聞いたら、“1パーセント”と言われました(笑)。でもその1パーセントに賭けようと帝京大の岩出監督のところにつれていったら、考え方が変わった。“自分を成長させるところにいきたい。帝京大でラグビーをやりたい”と。彼は彼なりに考えて判断したようです」

18 歳で同じ競技を選んでくれた父の喜びは想像に難くない。互いに忙しい日々を送る中、ラグビーの話をする機会も増えたという。
「能力的にはいいものを持ってる。帝京大で鍛えてもらったので、あとは経験値。試合での経験が増えれば、いけると思う」

リーグワンではトヨタとクボタとの試合も組まれている。どちらを応援するのか迷うところだ。
「難しいなあ。半々だな(笑)」
 息子のリーグワンデビューという、新たな楽しみもできた。
「トンガの支援に関しても、声がかかれば手伝いたいと思っています。昔、日本にいるトンガ出身選手でチームを作ってトンガに遠征しようという話もあったけど、みんな忙しいし、ケガした時の補償はどうする、ということになって実現しなかった。この1か月、日本のニュースでトンガが頻繁に取り上げられるようになった。これをきっかけに、トンガのことを広く知ってもらう機会になれば」

これからもラグビーとの繋がりはずっと続きそうだ。
文/森本優子


経歴
ロペティ・オト/1971年11月2日生まれ。トンガカレッジ→大東大→トヨタ自動車。現在はリスク管理(BCM・BCP 部門内事務局 元町生技エリア防災等)、建屋管理業務、その他グループ特命業務/現役時代はWTB。176㌢95㌔。日本代表キャップ8
 
 

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